ランディを色男だと思っているのは私です。
3話使ってようやく土台が整いましたー。次からはロイドさんのドキドキ☆捜査一課生活編です!
-----------------------------------
――コンコン。
心を決めた日の夜、どうやって皆に異動の話を切り出そうかとベッドの上で悩んでいると、ノックの音が聞こえた。叩き方で分かる、これはランディだ。エリィならもう少し控え目だし、ティオならばおずおずと、キーアだったら声も一緒に聞こえてくる。ロイドは少し声を張って返事をした。
「どうぞ。開いてるよ」
キィ、と僅かな軋みと共に扉が開かれる。そこに立っていたのは案の定、ランディだった。
「よぉ。暇なら一杯やらねーか?」
こうやって、ランディが誘ってくれることは度々ある。ロイドはそれなりに飲めるが一人では飲もうと思わないため、声を掛けてもらえるのは嬉しかった。もしかしたら、彼と酒を酌み交わすのもしばらくできなくなるかもしれないと思い、ロイドは素直に頷く。
「喜んで。外行く?」
「いや、俺の部屋で。そんなに量ないけど、いい酒もらったんだ」
すい、と紅の尻尾を残し、ランディの姿が消える。ロイドは起き上り、靴に足を突っ込んで、明かりを消してから隣の部屋に向かった。
ドアは開け放たれている。中を覗けば、主は早速、小さな遮光ボトルから氷を多めに入れたグラスに琥珀色の液体を注いでいた。座るよう促され、後ろでに扉を閉めて、隣人の空間に足を踏み入れる。キーア一人分ほどの間を開けて横に腰を下ろすと、間髪を入れずグラスを握らされた。
「ほら、すげーいい香りだろ。滅多にない二十年モノだぞ。今日の依頼が倉庫整理でさ、奥から出てきたんだけど、依頼主が結構な年のじーちゃんばーちゃんで。もう酒なんて飲まないからくれるって言うんで、ありがたく貰ってきた」
自分の分を作りながら、ランディはうきうきと語る。器を鼻に近付けると、微かに甘い花のにおいと、深みのある香気を感じた。色も澄んでいて、それほど詳しくないロイドにもいい酒であるのが分かる。
警察官という公僕の身分では、本当ならば供応や贈与は受けてはならない。だが、住民との距離が近くなるにつれて差し入れを貰う機会も多くなり、ロイド自身も断り切れない時があった。だから今回は、ランディ・オルランド個人へのプレゼントとして目を瞑ることにする。何より、美味い酒の前では建前なんて無粋すぎる。
先に口を付けるのは気が引けて、何ともなしに辺りを眺めながらランディが自分の分を作り終わるのを待っていると、ふとテーブルの上に乗せられたつまみが目に入った。普段部屋で飲む時は、つまみはナッツ類や乾物だけで、そう手の込んだものは用意しない。だが、今日はテーブルの上には所狭しと色々な物が置いてあった。
皿に盛られたサラミとチーズ、オリーブにクラッカー。形のよいガラスの器に入れられたミックスナッツは、普段食べているものより良いものに見える。生チョコレートはエリィがお気に入りと言っていた、なかなか手に入らない高級品だ。かと思えば、ロイドが好きなパン屋のラスクや、キーアによく強請られて買っている炭酸飲料といった、庶民的な物もある。
ランディは満たされたグラス片手に苦笑する。
「それ、お嬢とティオすけ、キー坊からの差し入れな。お前が最近、何か悩んでるみたいだから、ちょっと話を聞いてみてって頼まれちまった」
ロイドを心配する者の中に己が入っていないような口ぶりだが、ランディも随分と心を砕いてくれているのを知っている。心配をかけてしまった罪悪感と、皆の心遣いに、不覚にも泣きそうになってしまった。ランディはうっすら滲んだ涙に気付かないふりをし、グラスを掲げる。
「まあいいや、飲もうぜ。乾杯!」
玻璃が触れ合い、氷がかろりと音を立てて鳴る。一口含めば、美味い、としか表現できない濃厚な酒精が咥内に広がった。まだ十九年弱しか生きていないが、間違えなくこれまでの人生で一番上等な酒だ。言葉もなく余韻を味わっていると、ランディが豪快に笑った。
「ははっ。ホントに美味い酒飲むと、そうなるんだよな。ほら、飲め飲め」
「いや、でもなんか、勿体なくって」
グラスを両手で抱えて素直に心境を述べると、大きな手が頭に載せられた。無骨で重いが、暖かくて気持ちがいい。
「食いモノは、美味いって感じられる時に食べちまうのが一番! 飲みモノもな。これは一本しかないけど、そこそこいいのがまだあるからさ。遠慮なくいけよ」
数多の戦場を駆け抜けた掌が離れてゆく。それを残念に思いながら、ロイドはグラスを傾けた。「おっ、いい飲みっぷりだねぇ」と、どこぞの親父のような発言を零しながら、ランディも自らの酒を干す。相変わらずペースが早い。酌をしようと伸ばした手を制し、ランディは自ら二杯目を注ぐ。半分ほどを飲んだ頃、彼は徐に口にした。
「なあ。お前、一課に異動すんのか?」
「…!」
思わず酒を吹きそうになった。咽ながらも辛うじて吐き出すのだけは堪えていると、ランディが呆れたようにタオルを差し出してくれる。
「落ち付けって。つか、図星か」
「っ、なん、で」
ありがたく口の端を拭いながら、ロイドは疑問を押し出すのがやっとだった。セルゲイやダドリーが話したとは思えないし、自分も特に誰かに相談したりはしていない。ランディはからからと笑う。
「お嬢の読みと、ティオすけが仕入れてきた情報からだよ。この間、警察署に行った時に聞いた組織改編の話に、こんな時期に一課に異動する奴がいるっていう噂と、課長のしかめっ面、他にもまあイロイロと、ね。大方、お前が行かないと支援課を潰すとか、脅されてんだろ?」
「……」
名演技だとはお世辞にも言えないが、ロイドは精一杯のポーカーフェイスで黙秘を貫いた。だがこの場合、無言は肯定にも等しい。上手く話を逸らすこともできず、黙ったまま薄くなってきたグラスの中身を煽っていると、ふう、と大きな溜息が聞こえた。同時に空気が少し緩む。言及は諦めてくれたらしい。
(ごめん、ランディ)
ロイドの決断は、自己犠牲だ。支援課に配属された日、衝撃的な形で出会ったアリオスに諌められた、短絡的な挺身に近い。だが、自分と支援課、両方を助けられる術が、今のロイドには見付けられなかった。ならばせめて、残る者達に負い目を感じさせるような情報を与えてはいけない。別れの日、自分の意思だと笑ってここを去る――それだけは決めていた。
空になったグラスに、とっておきの酒が注がれる。おずおずと顔を上げると、ひどくやさしい碧の双眸がロイドを見詰めていた。
「その顔だとさ、お前、もう決めちまったんだろ?」
低く穏やかな声が、アルコールと共にゆっくりと、ロイドの内側へ入ってゆく。こういう時、彼が大人であることを強く意識する。三歳の年の差だけではなく、経験が圧倒的に違うからだろう。どれだけ壮絶な人生を歩んできたのかロイドには想像すら覚束ないが、それでもこうして他者を思いやれるランディを、ロイドは尊敬していた。虚勢を張っても意味がないのを感じ、ロイドは素直に頷く。
「…うん。ごめん」
「謝るなよ。お前が決めたことだろう、胸を張れって。んじゃ、ロイドくんのお悩み相談会は中止にして、プレ壮行会と行きましょうか」
乾杯、と呟き、グラスをもう一度合わせる。心尽くしのつまみをありがたく頂きながら、二人は他愛もない話に興じた。先日受けた支援要請のこと、キーアがしでかした悪戯、今朝のクロスベル・タイムズの記事など、話題は尽きない。毎日顔を合わせているのに、よくもこんなに話すことがあるものだと、お互い関心したほどだ。密室に男二人という不毛な空間なはずなのに、傍らに彼の気配があるのがひどく心地よい。
話し上手で聞き上手なランディに勧められるがまま、ロイドは一杯、また一杯とグラスを空けてゆく。流石に少し酔ってきて、夜風に当たろうと窓を開くと、階上から幼い歌声が聞こえてきた。その旋律には聞き覚えがある。
「ん、歌ってるのはキー坊か? 聞いたことない歌だな」
背もたれにのけ反ったランディが興味深そうに言う。耳を澄ませてみたが、しかし続きが紡がれることはなく、エリィの「もう遅いから、大きな声で歌っちゃダメよ。明日にしなさい」というお叱りによって終了した。ロイドはランディと顔を見合わせて苦笑した。
「流石、お嬢だな」
「ああ。しっかりしてる。さっきの歌、セレストさんが日曜学校の授業で歌ってたやつだよ。キーア、もう覚えたのか」
窓をほんの少しだけ開いたままにし、ロイドは席に戻る。ナッツを咀嚼していたランディは軽く目を見張った。
「へぇ。キー坊、妙に記憶力がいい…っていうか、元から知ってたんじゃないかって時、あるもんな。あれ、でもそれって、宿題になったヤツか? 彼女の家だけに伝わる、『夜鳴く鳥の歌』」
そう長くない帰り道、セレストは子供達に披露した歌が、彼女の家の女性にだけ代々口伝で伝わる秘密の歌曲なのだと教えてくれた。秘められていた理由を知る者も、また、彼女の他に受け継ぐ子女も他にいないため、あの美しい音を途絶えさせるよりはと、故郷から遠く離れたこのクロスベルの地で歌い始めたらしい。彼女は多くを語らなかったが、その歌のおかげで今の自分があるのだと微笑んでいた。
キーアの出生も育ちも分からないことだらけだが、口頭で伝承される異郷の歌を知るはずはない。ロイドは酔い冷ましに溶けた氷水を飲みつつ言う。
「ああ。だからキーアが知ってるはずがないよ。きっと頭がいいんだ」
支援課全員の妹でもあり、娘のようでもあるあの幼子が秀でているのは喜ばしいことだ。ランディは相好を崩し、上機嫌でボトルからワインを注ぐ。
「だよなぁ。俺、もう、親バカでいいや。そういやさ、お前、宿題の答え、分かったか?」
セレストは生徒達に宿題を出していたが、大人にとってはいささか簡単すぎるクイズだ。字面を見ればすぐに分かる。
「『ナイチンゲール』だと思う。小夜鳴鳥、って書くくらいだし」
「だよな。もしかしたら、彼女の二つ名も、あの歌から来てるのかもしれない。…ロイド、お前、知りたいって顔してんぞ」
見透かされ、羞恥にロイドは頬に血が上ってくるのを感じた。指摘された通り、何故彼女がナイチンゲールと呼ばれるようになったのかは興味がある。だがそれよりもロイドが知りたいのは、ランディがどこで彼女の噂を聞いたのか、だ。つまりは彼のことをもっと理解したいのだ。夕方にも覚えた不相応な欲に、ロイドは戸惑う。あの時は理性で己を制したが、今はアルコールのせいか自制が効かない。こくり、と首を縦に振ると、ランディはあっさりと教えてくれた。
「俺も人伝でしか聞いたことないからさ、あんまり信用するなよ? セレストさんは、ちょっと前まで裏通りで働いてたらしい。小さい頃に、遠くの町からクロスベル市の金持ちの所に奉公に出されて、色々あってそこを飛び出して、夜の街の住人になって。最初は生活のためにクラブで歌ってたんだけど、あの外見と歌声だろ。段々と人気が出て来て、金持ちの好青年に見染められて、夜の仕事はスパッと止めて。近々結婚するんだと」
「そう、か」
両親と兄を立て続けに亡くしたとはいえ、隣人に恵まれ、親戚にも頼れた自分よりも、彼女は遙かに苦労してきたのだ。セレストはあの折れそうなほど薄い肩、細い手足でどれほどの苦境を耐え忍んできたのだろう。薄っぺらい同情を示すのも申し訳なくなり、適切な反応を探していると、ランディが明るく続ける。
「見事なまでのシンデレラ・ストーリーだろ? 苦労し続けてきたヒロインが最後には報われる、いい話じゃねーか。笑って祝福してやりゃあいいんだよ」
ハルバートを自由自在に操る長い指で頭を掻き回され、ロイドは形ばかりの抗議をする。それを無視してひとしきりロイドの髪を乱すと、ランディは満足そうに笑った。
「すげー頭」
「やったのは誰だよ…」
手櫛で必死に髪型を整えていると、もう何杯目か分からないワインを片手にランディが語り出す。
「彼女、すごいよな。強い女だ。俺はさ、昔いた場所のことなんか思い出したくもない。自分を売った古巣のことなんて、覚えてても辛いだけなのに、けど、彼女は今でも大切にしてるんだよな。じゃなきゃ、故郷の歌なんて途絶えようが、忘れられようが、どうでもいいはずだ。真似できねぇよ」
ランディの眼には今、何が映っているのだろう。硝煙と血と土埃ではなく、美しい景色であることをロイドは祈るしかない。ハッピーエンドは彼にだって訪れるべきだ。
じいと見詰めた白い頬はほんのりと赤い。珍しく酔っているのだろうか。そういう自分も大分酔いが回っているせいか、ロイドは深く考えずに尋ねる。
「ランディに、故郷はないのか?」
口にした後、しまった、と思った。これでは猟団時代のことを語れと言っているようなものだ。だが、特に気を悪くした様子もなく、前言撤回をする前にランディは答えてくれた。
「ないさ。猟兵は定まった根城を持たない。俺はどこで生まれたのかも知らないし、知ったところで思い入れも何もない。でも」
そこで一度言葉を切ったランディは、照れくさそうに頬を掻いてから、珍しく歯切れの悪い口調で言う。
「最近はさ。ここがホームって感じが、すんだよな。故郷、なんて呼べるほど長くいた訳じゃないが、お前らがいて、ただいまって言って、おかえりって言ってもらうと、家に帰ってきたーって気分になんの」
はにかむように微笑むランディを見た瞬間、ロイドは自らの決断が間違っていないことを確信した。支援課の活動は今のクロスベルに必要不可欠だ。そして、支援課の存在自体が、ロイドの大切なものを守ってくれる。戦場しか知らなかったランディが、街の歪みと戦い続けるエリィが、ようやく殻から飛び出してきたばかりのティオが、独りぼっちのキーアが、共に笑い、安らげるのならば、己を賭した甲斐があるというものだ。
「なぁ、ロイド。すんげークサいこと言うけど、笑うなよ」
ふいに真面目な声になったかと思うと、がしり、と肩に腕を回され、引き寄せられた。布地越しに彼の逞しい胸板を感じて、ロイドの鼓動は早くなる。これまでスキンシップの一環としてボディタッチなど幾度もしたのに、どうしてだかやけにどきどきした。
(どうしたんだろう、俺)
アルコールのせいだと必死に自分に言い聞かせ、ロイドは相棒の整った顎のラインを見上げる。どの角度から見ても、やはり悔しいくらいに格好いい男だ。同性としては悔しがるべきなのだろうが、もはや嫉妬する気もおきたい。寧ろ惹かれて、触りたいとさえ思ってしまう。思わず延び掛けた指先を、窓から吹き込んだ冷たい夜風が留めてくれた。冷静になるべきだ。同僚にする行為ではない。
「つまりさ。クロスベル、っていうか、支援課はさ、俺にとっての故郷みたいなモンなの。大切なの。だから、守るよ。お前が戻ってくるまで、俺…じゃなくて、俺らが。だから心配せずに、お前は一課でやることやってこい」
薄くて形のよい唇が、ゆっくりと言の葉を紡ぐ。触れた場所からじんわりと、あたたかな体温と、彼の情が染み込んで来る。ぽんぽん、と、ランディはキーアにするようにロイドの背中を叩いた。
「クロスベルを守る方法は、一つじゃないだろ。場所も、やり方も違っても、俺達は同じものを目指して動いてるんだから、これからも仲間だ。正直、行って欲しくないけどさ。お前が決めたんだから、俺達がしなきゃいけないのは、笑って背中を押すことと、お前が残してくれた支援課を、もう取り潰しの話が出ないくらいに盛り立てることだろう。いつお前が戻ってきてもいいように」
「ランディ…」
碧と薄茶の視線が絡み合う。手向けられた想いと、神秘的な対の宝玉に魅入られ、動けずにいるロイドの前で、ランディはみるみるうちに顔を赤くした。
「…ダメ! 恥ずかしい!! お前のが移ったから、これくらいなら決められるかと思ったんだけど、やっぱ無理だわ!」
ロイドと体を放し、彼は両手で顔面を覆う。折角の感動的な空気が台無しだ。まるでいつも自分が気障な台詞ばかり言っているような口ぶりを不服に感じ、軽くねめつけてやると、指の隙間からちらりと目を覗かせた彼は言い訳のように付け足した。
「言ったこと自体はマジだかんな。恥ずかしいけど」
「分かってるよ。ありがとう、ランディ」
共に過ごした時間は決して長くはないが、事件を通して絆を築いた相手だ。虚言かどうかくらいは判断が付くし、ランディは誠実である。大切なところで茶化したりはしない。そう臆面なく言い切れるほど、ロイドはランディを信用していた。
いつだって側にいてくれて、見守り、時にやさしく、時に厳しく導いてくれる、頼れる兄貴分。もしかしたら、ロイドにとってはそれ以上になりつつある、大切な存在。彼や仲間の作ってくれたやさしい鳥籠から、自分は巣立っていかなければならない。今のランディの言葉が、決意はしたものの踏み切れずにいたロイドの背中を押してくれた。皆が笑顔で送り出してくれるのならば、やはり自分も笑顔で飛び立つだけだ。
「よーし、今夜は飲み明かそうぜ! 大サービスだ、部屋にある酒、全部飲んだっていいぞ」
「いや、それは流石に無理だよ。って、そんなに出さなくていいから!」
ショックから立ち直ったのか、ランディは新しいボトルを次から次へと出して来る。諌めながらも飲み明かしたい気分であるのは同じだったので、ロイドは明日の二日酔いを覚悟し、杯を重ねた。宴は深夜まで続いた。
覚束なくなった思考の中、覆うことを忘れた本能で、ロイドはランディに凭れかかる。
「おー、もうツブれちまったのか? 俺より若いくせに」
からからと笑いながら、ランディはやさしく頭を撫でてくれる。こうして彼を一人占めできることに悦びを覚えている自分に気付かないふりをして、ロイドはグラスの底に溜まった真っ赤な液体を飲み下した。
**********
そして、約束の日の朝。
支援課全員と、キーア、ツァイト、ダドリーまでもがセルゲイの執務室に集められていた。いつもと違う空気にきょろきょろしているキーアの、若草色の髪を梳いてやり、ロイドは微笑む。
「キーア。今から大切な話があるから、聞いてもらえるかな?」
「うん…」
少女は空気に聡い。金色の瞳は不安そうな色を湛えている。少しでも安心させようと口を開きかけたロイドだったが、上司に名を呼ばれて身を引いた。そのまま前に進み出て、セルゲイの横に立つ。ぽん、と励ますように大きな手が肩に置かれた。
「あー、もう大体知ってると思うが、来月頭付けで発令される改組に伴って、ロイドが捜査一課へ異動することになった」
セルゲイの説明に驚いた者はいなかった。キーアは異動、の意味が分からないらしく、小首を傾げている。
「任期は未定だ。出向じゃあなく、籍もあっちに移っちまうから、こっちに戻ってこられる保証はない。だが、クロスベルが落ち着いて、異動願いが出せる状況になった時、お前がまた支援課に戻りたいようであれば、手は尽す。約束する」
「その時に支援課が残っていれば、の話でしょう」
ダドリーの横槍に、セルゲイはにやりと口の端を吊り上げた。
「残してみせるさ。ちなみに、支援課の増員は当面ないぞ。ロイドが抜けた分、負担は大きくなるが、何とかがんばってくれ。リーダーはランディ、お前だ」
予想していたのか、ランディは素直に「アイ・サー」と諾意を見せる。リーダーだからと言って大した業務はないが、残されたメンバーの中では彼が適任だろう。戦場を渡り歩いただけあり、彼の洞察力や咄嗟の判断力はロイドを上回る。ランディならば上手くエリィとティオを率い、守ってくれるはずだ。
「ランディさんがリーダーですか…ちょっと不安ですね。でも仕方ありません、従ってあげます」
「ふふっ。よろしくね、リーダー。頼りにしてるわ」
女性陣の歓迎を受け、ランディは苦笑する。
「ま、ロイドのようにはいかねーが、俺なりにがんばらせてもらうわ。でも課長、俺、捜査官資格ないんスけど、いいんですか?」
「正直、駄目なんだな。だからランディには、半年以内に試験に合格して、捜査官資格を取ってもらう」
「えっ?!」
驚くランディに、セルゲイは引き出しから取り出した封筒を手渡した。
「試験要領と、お前の習得単位、残りの必要単位だ。よく読んどけよ。実技は警備隊での演習が振り返られるから、殆どクリアしてる。座学は仕事を調整しながら、警察学校の在職者向けコースに受けに行ってくれ。試験問題は引き継ぎがてら、ロイドに教えてもらえ」
「分かりました、ベストを尽しますよ」
頼もしい部下の言葉に、セルゲイは申し訳なさそうな顔をした。
「無茶振りをしてすまんな。ランディが合格した後、もしエリィも資格を取るつもりがあるなら、コースに通うといい。警察出身の官僚だって多くいる。持っていて損はないだろう」
「ありがとうございます。考えてみます」
「――ねぇ。ロイド、どこかに行っちゃうの?」
幼い声が会話を割る。それまで黙っていたキーアは、今にも泣き出しそうに目を潤ませていた。ロイドは少女の前に跪き、ひたと双眸を見据えて言う。
「置いてけぼりにしてごめん。俺、職場…ええと、仕事をする場所が変わるんだ。今まではここで、ランディ達と一緒に働いていたけど、これからは警察署で、ダドリーさん達と一緒になる。だから、これまでみたいに、支援要請の合間に帰ってきて、キーアと一緒にご飯を食べたりはできなくなる」
キーアの眦に涙が浮かんだ。ロイドは慌てて言葉を足す。
「でも、このビルの部屋を引き続き寮として借りられることになったから、夜には帰って来るよ。休みの日もここにいる。えっと、だから」
上手く伝えられずにもどかしい思いをしていると、ランディが助け船を出してくれた。彼はひょい、とキーアを抱き上げ、穏やかな声色で告げる。
「キー坊。ロイドはどこか行っちまう訳じゃねーぞ。これからもここで一緒に暮らすけど、働く場所が変わるんだ。今まで家で専業主婦してたかーちゃんが、パン屋でパートを始めるみたいなもんだな。だから一緒にいられる時間は減るけど、かーちゃんは家のために外で出てがんばってくれてんだから、がんばれって言ってやろうぜ」
「その例えはどうかと思いますが」
ティオの冷たい突っ込みが入るが、似た事例を知っているのかキーアは納得したようだった。こくり、と頷いた彼女は、両手を伸ばしてロイドにしがみ付く。
「ロイド、キーアを置いてかない?」
首に回された手はちいさく、細く、頼りない。子供独自の、少し湿った高めの体温に、いとおしさが込み上げてくる。腕の中の体を、潰れないように、でも強く抱き締めて、ロイドははっきりと答えた。
「うん。絶対に、置いていかないよ。皆と一緒に、これからもキーアの側にいるから」
「…なら、キーア、行ってらっしゃいって言うよ! ロイド、がんばってね!!」
面を上げたキーアは、いつもの輝くような笑顔を見せてくれた。健気な様に胸が熱くなる。養い子の成長にロイドの方が泣きそうだ。雫が垂れないように鼻を啜っていると、窓側から咳ばらいが聞こえた。
「感動のシーンの最中に悪いが、そろそろスケジュールの調整に入っていいか?」
「あ、はい! すみません」
キーアを下ろし、ダドリーに向き直る。気を利かせたエリィとティオが、キーアの手を引いて部屋の外へ出て行き、ランディとツァイトも退出した。
去り際のランディと視線が絡んだような気がしたが、気のせいだと言い聞かせ、ロイドは目先の仕事に集中した。
NEXT